| 2019年6月13日 | 心と潜在意識 |
慣れや常識というものは、時に恐ろしい牙を剥きます。
日本で最初に養鶏場を始めた人物の、ある逸話があります。
当初、鶏を檻の中に入れて飼育したところ、鶏たちは一切の卵を産まなくなってしまいました。
本来、庭で放し飼いにされ、朝になれば自由に鳴き、好きな場所を歩いていた生き物です。檻という不自然な環境に強いストレスを感じ、心身が拒絶を起こしたのです。
そこでその創業者が何をしたか。
彼は、まだ何も知らない「ひよこ」の段階から、檻の中で飼育し始めました。
生まれ落ちた瞬間からそこが世界のすべてであれば、檻の中の生活がなれっこになる。そうして、不自然な環境に順応した鶏たちは、バンバン卵を産むようになったのです。
現代の学校教育、そして社会の構造は、この養鶏場と全く同じです。
「授業を1時間受けたら、10分の休憩」
この判で押したような繰り返しの本質は、学ぶ喜びを知ることではありません。面白くもない作業をじっと我慢し、黙々とこなすための「飼い慣らしの訓練」です。
本来、人間は同じ単純作業をじっとやり続けられるようにはできていません。普通は飽き、拒絶する。それが自然な本能です。
にもかかわらず、社会が個人の自由を奪い、従順さを求めてきたのは、安定して品質の良いものを大量生産するための「規格品」を育てる必要があったからです。
私たちはわずか6歳という、ひよこのように無垢な時期に学校という檻に入れられ、退屈な環境に適合するよう、何年もかけて魂を均(なら)されているのです。
素敵な恋人と出会い、温かい家庭を築きたい。
自分に自信を持ち、心から満足できる仕事に就きたい。
好きな趣味を存分に楽しみ、よい子育てをしたい。
人は生きている限り、様々な願望を抱きます。私たち人間は、願い、望む生き物だからです。
その内容は人によってまちまちで、時に正反対に見えることもあります。刺激的でドラマチックな日々を欲する人もいれば、平穏で静かな日々を希求する人もいるでしょう。
しかし、私たちが抱くあらゆる願望の根底には、ただ一つ、共通する切実な願いが存在します。
それは、「幸せでありたい」という願いです。
刺激を求める人は、その先にこそ幸せがあると信じているからであり、平穏を求める人は、それこそが幸せの形だと信じているに過ぎません。表現の方法が違うだけで、私たちは皆、幸せであることを切に望んでいます。
しかし、残念なことに多くの人が「自分にとっての本当の幸せとは何か」について、立ち止まって深く内省したことがありません。どうすればそれを実現できるのかという、明確な評価軸を持っていないのが現状です。
だからこそ、幸せを求めて必死に願望を追い求めているはずなのに、予想外のトラブルが起きるたびに軸がブレ、行動は空回りしてしまいます。
あるいは、念願の夢や目標を達成したにもかかわらず、なぜか心が満たされない。一時的な達成感の後に残るのは、乾いた感覚だけ。常に何かに駆り立てられているようで、本当の安らぎが得られない。そんな深い寂しさを抱える人も少なくありません。
私たちはどうやって、自分にとっての本当の幸せを見出せばいいのでしょうか。
人生において本当の豊かさを実現するために、根本的に大切なこと。
もし、それがあるとすれば、答えは一つしかありません。
「自分を大切にして生きる」
すべての始まりは、他人が作った檻を出て、自らの命を慈しむことから始まります。















