相手がただ存在してくれていることへの感謝

2019年7月16日 心と潜在意識

「愛」とは、決して感情の波に流される受動的なものではありません。それは、自分という存在の絶対的な価値を認識し、自ら高まろうとする成長意欲からあふれ出るものです。

愛とは、相手がただそこに存在してくれていることへの、純粋な感謝に他なりません。

ゆえに、自ら愛することに決断を下し、永続的な意思と洗練された能力によって実行しようと努力する――。相手の幸福を心から願い、その成長を命がけで支援する能動的な「行為」そのものなのです。

ではなぜ、これほど豊かな世界の中で、「自分は愛されていない」と孤独に震えてしまう人が後を絶たないのでしょうか。

「手のかからない、反抗しない子は、未成熟な親や支配的な親、自己中心的な親にとっては、素直で都合の良い『よい子』に思える」

「心を病んでしまう人というのは、子どもの頃にいわゆる『よい子』であった人が圧倒的に多い」

これが、人間心理の切ない現実です。

このような「親にとって都合の良い子」は、自らの純粋な欲求や感情を抑圧され、大切にすることを許されなかった子どもです。それゆえに、内面は精神的に非常に脆くなってしまいます。

こうした子どもたちが大人になり、奪われた自分自身を本当の意味で取り戻すためには、まずは自らの奥底にある欲求や感情に気づき、それを誰のためでもなく「自分のために大切にしていく練習」を、日々重ねていく必要があるのです。

心理学では、無意識に自分を過酷に駆り立てる心の声を「ドライバー」と呼びます。

例えば子どもの頃に、「自分が親を満足させるような行動をとらないと、すぐに親が不機嫌になってしまう」という張り詰めた経験を繰り返すと、心に強力なドライバーが定着します。

「親を喜ばせなければいけない」

「自分の気持ちを殺してでも、親を満足させなければ価値がない」

そして恐ろしいことに、大人になってからも、この親との関係で身につけた歪んだ対人 スタイルを、パートナーや友人、職場の人に対してもそのまま適用してしまうのです。

この「他人を喜ばせろ」というドライバーに支配されている人は、常に他人の顔色を気にしすぎ、相手の機嫌を窺うことに全神経を消耗させるため、いつまで経っても自分の気持ちを最優先にすることができません。

本当は気乗りしない誘いを受けた場合でも、「相手をがっかりさせてはいけない。相手を喜ばせなければ」という内なる命令の声に駆り立てられ、どうしても断ることができなくなってしまうのです。

真実の愛とは、相手の「幸福を願い、同時に相手の成長を支援する」という両輪で成り立っています。

「幸福を願う」とは、物質的・精神的なものを問わず、相手が本当に必要としている何かを惜しみなく「与える」ということです。

そして「支援する」という高次の行為には、自分が直接的に手助けをする甘やかしだけではなく、必要とあらば、あえて直接的な手助けを厳しく断ち、相手が失敗や挫折という痛みを伴う経験を通じて自ら学ぶ過程を、遠くから温かく信じて見守るという「静かな覚悟」も含まれているのです。

愛の動機とは、その相手が持つ「所有物」――容姿や性格、才能、富、職業、家柄といった表面的な属性に価値を感じるからではありません。

そんな条件をすべて剥ぎ取ったとき、ただ「その相手が今、そこに存在してくれている」という奇跡的な現象そのものに価値を感じ、震えるほどの感謝を捧げることなのです。

私たちには、この人間世界に生まれてくる遥か前から、魂の奥底に刻み込まれた「愛したい、愛すべきである」という本能的な使命感があります。

それは、人間という生命の誰もが本来持って生まれてくる基本的な欲求であり、宇宙(あるいは大いなる神のような法則)が、私たちに対して平等に与えてくれた最高のギフトです。

人生に訪れる過酷な試練を乗り越えるための「無敵の道具」であり、同時に、私たちの魂がどれほど成熟したかを測る「一生の修行課題」でもあるのです。

誰もが心の奥底に、この先天的で神聖な「愛の使命感」を持ってこの世に産み落とされます。しかし、物質世界や剥き出しの人間社会での荒波を経験するにしたがって、次第にその光を忘れてしまったり、思い出すことを恐れて拒絶してしまったりすることが少なくありません。

だからこそ、私たちは定期的になんらかの神聖な方法によって、この本能的な「愛の使命感」を思い出し、何度でも再認識しながら生きていかなければならないのです。