| 2026年4月9日 | プライベートのキヅキ, 心と潜在意識 |

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## 「知ったつもり」という足枷
知人が描いたヘモ画展の作品を眺めていました。
それは、「自分を縛る足枷がある」と思い込んでいた人が、実はそれが単なる気のせい(思い込み)だったと気づいていくプロセスを描いたものだそうです。
私たちは、自分を縛る見えない足枷を、自らの手でつくり出していないでしょうか。
「この世界は、どうせこういうものだ」と、すべてをわかったつもりになっていないでしょうか。
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狭い部屋から見上げていた、歪んだ世界
20代前半の頃の私は、引きこもり生活の中でネットゲームに没頭し、人との関わりを断絶することでかろうじて生存していました。
当時の私は、強烈なネガティブマインドの底に沈み、強い疑心暗鬼に囚われていたのです。
「この世界の人たちは誰も私を理解してくれない。私は必要のない、邪魔な存在なんだ」
そんな閉塞感に耐えかね、なけなしの資金を握りしめて海外へ一人旅に出ました。
見知らぬ土地、初めて触れる文化、言葉の通じない人々。その混沌の中に身を置いたとき、私は生まれて初めて、自分を縛り付けていた呪縛から解放される感覚を味わったのです。
世界を憎み、世界を拒絶していた過去の私は、ただ自分の狭い部屋から見あえる範囲だけで「世界を知った気」になっていただけでした。旅は、その身勝手な思い込みを、鮮やかに打ち砕いてくれたのです。
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「他人はわからない」という深い優しさ
もちろん、今でもふとした瞬間に「知ったつもり」になってしまうことはあります。
ですが、人が他人のことを本当に理解することなど、本質的には不可能なのかもしれません。私たちは誰もが、自らの経験則というフィルターを通して、相手のほんの一面を切り取り、判断しているに過ぎないからです。
世間を騒がせる犯罪者であっても、報道される断片的な情報だけで「絶対的な悪」と断定され、その背景にある複雑な痛みや物語は無視されがちです。
あるいは、どんなに聖人のように優しい人であっても、心の余裕を失えば苛立つこともあれば、外での顔と家族に見せる顔が全く違うことなど当たり前にあります。
たとえ誰かと「深く分かり合えた」と感じる瞬間があったとしても、それは互いの価値観のほんの一面が、奇跡的に重なり合っただけのこと。私たちは常に、自分にとって都合の良い見方で、世界の断片を切り取っています。
人と深く接すれば接するほど、私は確信するようになりました。
「他人のことは、どこまでいってもわからない」
そして、「自分以外の誰にも、私のすべてを完璧に理解することはできない」
冷たく聞こえるかもしれませんが、この前提に立つことこそが、他者と健全な距離感で、優しく繋がり続けるためのベースにある知性だと思うのです。
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知らない世界を生きる、という歓び
「あの人のことはもう分かっている」「この世界はこういうものだ」
そうやってすべてにラベルを貼り、完結させてしまうことは、自らの世界を狭い檻に閉じ込める行為に他なりません。
「まだ見ぬ世界には、私の知らないことが数え切れないほど溢れている」
そう思える今の方が、かつて世界をすべて知った気になって心を閉ざしていた頃よりも、ずっと自由で、豊かで、幸福なのです。
自らが作り出した思い込みの足枷を外し、不確実で美しい世界へ、今日も一歩を踏み出していきましょう。














