無意識と必然の法則

2019年6月25日 心と潜在意識

この宇宙には、ある「必然の法則」が存在します。

それは、人生で起きるどんなに過酷な問題も、あなたに何か大切なことを気づかせ、魂を覚醒させるために起きている、という真実です。

それらは決して、運悪く降ってきた偶然の悲劇ではありません。すべては起こるべくして、あなたの前に必然的に現れます。

ということは、逆説的にこう言えるのです。

「あなたに解決できない問題は、あなたの人生にはけっして起きない」

今、目の前にある壁は、あなたがそれを乗り越える力を持っているからこそ、そのタイミングで現れたのです。あなたが前向きにその問題と対峙し、その裏にあるメッセージを読み解いたとき、後になって必ず「あの問題が起きて本当に良かった。そのおかげで、今の自分がある」と、大いなる恩恵に感謝する日が訪れます。

なぜなら、私たちの心には、自覚できるわずかな「表面意識の世界」の下に、自分ではコントロールできない広大な「無意識の世界」が広がっているからです。

例えば、ある組織でA課長とB課長が、次の部長の椅子を巡って激しく競い合っていたとします。

結果、人事発令でB課長が部長に昇格し、A課長は出世競争に敗れました。

同僚から「残念でしたね」と声をかけられた瞬間、A課長は険しい表情を隠しながら、こう言いました。

「いや、俺はもともと出世なんて興味ないよ。そんなものは俗物が追いかけることだ」

この時、彼の心の中では何が起きているのでしょうか。A課長は「出世したい」という本音を無意識の底に強く抑圧し、「自分はそんな小さな器の人間ではない」と思い込もうとしています。しかし、表面意識でいくら自分を騙してみても、彼の深層意識(無意識の世界)は、敗北の悔しさと惨めさで血を流しています。

では、なぜ私たちがこの「無意識の世界」の動きを知ることが、それほどまでに重要なのでしょうか。

それは、私たちが自覚していない無意識の住人――「エゴ」こそが、人生のあらゆる人間関係のトラブルや不和を引き起こす真犯人だからです。

先ほどのA課長の話には、恐ろしい続きがあります。

しばらくして、新部長になったB課長が、運悪く取引先の不祥事に巻き込まれました。傍目にはB課長の責任とは言えない案件で、社内でも同情の声が集まっています。

しかし、A課長だけは、ここぞとばかりに強硬な姿勢でB課長を糾弾し始めます。

「企業の不祥事に巻き込まれるなど言語道断。上に立つ者は潔く襟を正すべきだ」

彼は、誰も反論できない「正論」という名のナイフを振り回し、徹底的に相手を追い詰めます。しかし、A課長自身は、自分の心の中の「エゴ」が歪んだ歓喜に震えていることに全く気づいていません。出世競争に敗れた根深い嫉妬と恨みを、正義の仮面をかぶせて、合法的に爆発させているだけなのです。

もし彼が、自分の無意識にあるエゴの醜い動きを「自覚」する知性を持っていたなら、B課長に対する姿勢はもっと哀れみと寛容に満ちたものに変わっていたはずです。

ビジネス社会だけでなく、あらゆる人間関係において、この「正義の皮をかぶった隠れたエゴ」が、修復不可能な分断を生み出しているケースは枚挙にいとまがありません。

もう一つ、無意識のエゴが引き起こす、より巧妙で冷酷な例を挙げましょう。

心理学で「ウエットブランケット(濡れた毛布)」と呼ばれる人物の振る舞いです。これは、高学歴で周りから「優秀で明晰だ」と評価されている人に、驚くほど多く見られる心の病理です。

仮にC課長とします。彼は、若い部下が熱意に満ちた斬新な企画を提案してくると、その鋭い頭脳をフル回転させて、企画の微細な弱点やリスクを容赦なく見つけ出します。 tender、ロジカルに、完膚なきまでにその企画を叩き潰すのです。

その結果、新人の心の中で激しく燃え始めていた情熱の火は、あたかも「濡れた毛布」を上から被せられたかのように、一瞬で見事に消し去られてしまいます。

C課長のナタのような正論の裏で、一体何が起きているのか。

実は、この明晰なはずのC課長の内面には、底知れない「深い劣等感」がドロドロと渦巻いているのです。優秀でエネルギーのある若手を見るたびに、彼の無意識にある劣等感が激しく刺激され、恐怖に怯えたエゴが、自分の立場を守るために先手を打って若手の芽を「殺し」にかかっているのです。

皮肉なことに、この残酷な防衛本能は、学歴社会の勝者と呼ばれる人々に多発します。なぜなら彼らは、常に他者と比較され、勝ち続けなければ価値がないという過酷な競争の中で、内面に最も深い劣等感を植え付けられた、競争社会の傷病兵だからです。

では、自分の内側にある、この見たくもない「無意識の劣等感」や「醜いエゴ」の存在に気づくには、どうすればよいのでしょうか。

その魔法の処方箋は、きわめてシンプルです。

「自分が、他人の成功や素晴らしいところを、心の底から100%祝福し、褒めることができるか」を深く見つめることです。

この冷徹な内省を行うことによって、あなたの心の奥底に隠されたシャドウ(闇)が、驚くほど明瞭に浮かび上がってきます。

ある程度の年齢になれば、私たちは大人の世渡り(社交辞令)として、「人を褒める」というテクニックを使いこなせるようになります。しかし、ここで直視すべきは、言葉で相手を称賛している瞬間の、あなたの「お腹の奥の微細な感覚」です。

誰かを褒めたその瞬間、あなたの心の中に、まるで「相手の価値が上がった分、相対的に自分の価値が目減りした」ような、妙な焦りや不快感が走りませんでしたか?

あるいは、笑顔で賞賛の言葉を述べながら、心の奥底では「素直に認めたくない」と抵抗したり、激しい嫉妬の炎が揺らめいていることに気がつくかもしれません。

それこそが、あなたの無意識の底に潜む「エゴ」のしっぽを捉えた瞬間です。

もしもあなたが、今、誰かに対して「どうしてもゆるせない」という強い憎しみや執着を抱いているのなら、どうか「ゆるすことができない自分」を責めるのだけはやめてください。

「ゆるせない」ということは、あなたがそれほどまでに深く傷つき、今もなお痛みに耐えているという、健気な防衛本能の証拠なのです。まずは、その深く傷ついた自分自身の味方になり、ゆるせない自分をそのまま「ゆるす」ことから始めてみましょう。

今は、まだ他者をゆるすための心の準備ができていないだけ。それでいいのです。

まずは、傷ついたそのままの自分をジャッジせずに受け入れること――つまり「徹底的な自己受容」の練習をされることを強くおすすめします。

あなたの内側で自己受容が深まり、心が愛のエネルギーで満たされてくると、他者をゆるすための精神的な「余白(キャパシティ)」は、あらかじめ用意されていたかのように自然と生まれてきます。

自己受容に取り組みながら、あなたの心の奥底に眠る「belief(信念・思い込み)」の正体を、そっと探ってみるのも素晴らしいアプローチです。

私たちは、無意識のうちに次のような「人生を制限するbelief」を握りしめていることがよくあります。

 「相手をゆるしてしまったら、自分が損をして負けることになる」

 「可哀想な『被害者』のポジションにいるほうが、周囲に優しくされて楽だ」

 「あの悪人は、自分が受けた痛みと同じだけの罪の報いを受けるべきだ」

 「この恨みは、いつか復讐して晴らさなければ気が済まない」

 「無防備に人をゆるすことは、自分を危険に晒すことだ」

あなたの心の中にも、これらに似た頑固な思い込みが隠れているかもしれません。

ここで大切なのは、それらのbeliefが、これからのあなたを本当に幸せにしてくれるものなのかどうかを、冷徹に、そして優しく問い直してみることです。

周りの人たちは、それぞれの色メガネ(価値観)をとおして、あなたに様々な意見やアドバイスをぶつけてくるでしょう。しかし、仮にあなたが彼らの言う通りに行動したとしても、あなたの人生の結果に対して、彼らは1ミリも責任を取ってはくれません。

あなたの人生は、どこまでもあなた自身の責任で創り上げていくしかないのです。

人生でどんな過酷な問題に直面したとしても、それをどう捉え、どう対処し、どのような未来を選び取っていくのか。

決めるのは、他の誰でもない、あなた自身です。その自由と責任を受け入れたとき、あなたの人生の主導権は、完全にあなたの手の中へと戻ってくるのです。