死んで花実が咲くものか

↑昨日は疲れていたのか、19時頃に寝ちゃって起きたら無性にちゃん系ラーメンを食べたくてwカオスな新宿歌舞伎町まで歩いて食べにいきました。きっと身体には負担になるだろうけど、、思い立ったらやりたい。最高。

私が本当に伝えたい「幸せ」の姿

先日、「舟を編む(辞書を編纂されている方々)」という、少しユニークな異業種交流会のようなイベントに足を運ぶ機会がありました。その際、辞書を作っていく中で“今までで一番心に響いた言葉”として教えていただいたのが、この言葉です。

――「死んで花実(はなみ)が咲くものか」

生きていればこそ良い時も巡ってくるけれど、死んでしまえば万事おしまいである、という意味です。どんなに辛くても死を急がず、諦めずに生き続けるべきだという戒めであり、力強い励ましの言葉でもあります。

確かに、その通りだと思います。
ただ、せっかく一度きりの命を生きるのなら、私たちはただ生存するだけでなく、「心から幸せに生きたい」ものですよね。

そのイベントでは、他の参加者の方々とお話しする機会もありました。
みなさんそれぞれの分野で社会的に素晴らしい実績を出されていて、人としても優しく、ユニークで魅力的な方ばかり。非の打ち所がないような素晴らしいコミュニティでした。

それなのに、私のセンサーは、ある微かな“違和感”をキャッチしてしまったのです。

目の前で素敵な笑顔を見せてくれているのに、なぜか魂の底から幸せそうには見えない。言葉にするのは難しいのですが、どこか「物足りなさ」や「渇き」のようなものを抱えているように感じられました。

社会に十分に順応し、一生懸命に頑張っている。けれど、自分が「本当にやりたいこと」に手を伸ばすことを、どこかで躊躇しているような、あるいは見ないふりをしているような……。

その理由はきっと、これまでの人生の中で学んでしまった「これは良いこと、これは悪いこと」「こうあるべき」という、頭の中のマインド(常識の檻)に囚われているからなのだと思います。

私が思う本当の幸せとは、どこまでも「自分らしく生きる」ことです。

人によっては、美容に徹底的にこだわることかもしれないし、フルマラソンに挑戦することかもしれない。あるいは、誰かに自分の弱みを見せることや、素直に甘えることかもしれない。
その人が「本当にやってみたいこと」に蓋をしてしまうと、頭では「今の生活で十分恵まれている」と思い込もうとしても、魂はどこか物足りなさを感じてしまいます。

きっと、あなたの本来の自分(魂)は、いつだって「やってみたい」と感じているはず。

世間の正しさやマインドのブレーキを少し外して、自分のピュアな願いを叶えてあげること。
それこそが、生きて、美しい花実を咲かせるということなのだと、私は思うのです。